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まっさらな心を 傷つけないように 約束をしよう

コミュニケーションという欺瞞
たまには書くか。
たまにっていうか、書きためてきたものだけどね。
……書いても書いてもきりがないんだけど。長すぎるよ。


この先は長いし、重いし、こういう話を嫌がる人は多いでしょう。
しかし、こういうのも少しくらいは考えておく必要はあるのです。

だって、こういうものは本当にありふれていて、避けて通ることはできないのだから。
そしてそれを無理に避けようとすれば、そこに「ごまかし」が生まれる。
このごまかしがまた、新たなデメリットを生んで……

まあ、全く考えたことがない人間が、そう簡単に理解できる話でもないのですが。
私からすればそんなに難しいことではないけれど、ついてくるのは、少しばかり難しいだろうか。

ある種の人間……ぶっちゃけ自分に自信のない人間には、こういう話は厳しすぎるだろうな、というのは知っています。
おそらく、痛いだけでほとんど理解できないでしょうね。
だからといって、それは相手の痛いところだからと手加減をすれば、まさにその良心に付け込まれるのです。

明るく生きるために。
この辺でもってけじめとしましょう。



相手は反論しているつもりなのだろう。
しかしそれこそ、私の言っていることの証明にしかなっていない。
まさにそれが、何よりの証拠なんだけれど。

一理くらいはあると思ってるんだろう。だが、一理すらない。
大体、その程度のことを私が考えてないとでも思っているのか。

そんな低レベルすぎるイメージを人に押し付けてよ。
これこそ、まさに相手を馬鹿にしている行為だとわからないんだろう。

もう、うんざりだよ。
私は同じことを、あと何回言えばいいのだろう。
いや、何回言っても無駄なのだろう。
もっと早く縁を切るべきだったんだ。



私はね、もう既に、十分すぎるほどに自分を示した。
考えさせる言葉も言った。

しかし……何も理解できなかったんだな。
そしてその理解できなかったことをごまかすために、相手を馬鹿にして「なかったこと」にしてしまう。
なぜなら、奴らの中では、理解できないということは相手に劣るということだからだ。
その劣等感ゆえに。

これが繰り返されることによって……
言ったはずのことは言ってないことになり、
全部私が悪いことになり、
だから俺に従え、だと?

ふざけるな。



しかしまあ、こんなのはスルーすればいいと考える人もいるだろう。
実際、私も結構な量をスルーしている。
しかしだな。

はっきり言うと、私が我慢すれば済むどころの話ではないのだ。

私がそう簡単に怒ると思った?
最低とか、論外とか、そういう強い言葉を簡単に使うとでも思った?
そんなわけがなかろう。
むしろ、そんなふうに怒るわけがないからこそ、そこに「付け込んだ」のだろう?



「一面」

よく、誰かの嫌な所をいう時、それはその人の一面でしかないよなんていう人がいるが。

あのな。
一面どころじゃないから文句が出るんだよ。

特に私が何かをいう時は、ちょっと思った程度のものではないものばかり。
そう簡単に否定できるものではない。
はっきり言って、きっついですよ。


「悪意」

何かを怒られた時に、悪意はないとかいう言い訳をする人がいる。
しかし……

あのな、悪意がないだなんて何の言い訳にもならねえんだよ。
悪意からくるものじゃないことをわかった上で、酷いと言っているのだ。

まず、普通の人間ならば、悪意を持って行動し続けることなんて苦しくて続かないんだよ。
そして、悪意を持ち続けられるような、本当におかしい奴なんてほとんどいない。
そういう奴らは声が大きいから、なんだか多くいるような気がしてしまうかもしれないけれど。
一見そういうふうに見える奴らだって、実は「俺がこういうことを言うのは(ある意味では)当然なんだ」と正当化していたりする。

悪意なんてものは、多くの場合寿命が短いもの。
私なら、クソだとは思いつつも、その程度のものは簡単に流してしまう。
まあ、悪意ばかりの時は簡単にさようならできる……というかするだろ?

もっと問題になるのは、悪意からくるものではない場合。もしくは、悪意を自覚できていない場合。
自覚がないので、何度も何度も繰り返してしまう。
そしていくら怒られたところで、俺はそんなひどい人間じゃないんだと言うために暴れまくるのだ。
これは、本当に醜いよ。

結果として、悪意がある場合と悪意がない場合を比べてみれば、悪意がない方が何倍も手ひどいことになる。
そして、だからこそ怒られるんだ。
そんなこともわからずに低レベルな反論を繰り返すから、そのうち何を言っても相手にされなくなるんだよ。

ちなみに、集団心理が働く場合などはこの限りではないが、それはここで言わんでもいいだろう。


「好意」

好意とは、しばしば装われる。

意図的にしろ、非意図的にしろ、好意というものがごまかしのために使われることは多々あります。
みんな気づかない、気づきたくないことが多いみたいだけど、意外と日常にありふれているものだよ。

よくある例は、自分の行いを正当化するために、相手に好意があるゆえの行いだと「思い込む」というもの。
しかし、ちょっとばかり鋭い人間からみれば、こんなものは嘘だって簡単にバレてしまう。

好意があったと言えば、それで全部許されるとでも思っているのでしょう。
それが、罪悪感や、相手から責められるのを回避したいがゆえに思い込んだものであると気づきもせずに。
「好意からくるものなのに、それを拒否するお前がおかしいんだ」と。
そうやって、相手を馬鹿にするのです。

ああ、好意が全くないとは言わないよ。
しかしそれは一般的な意味の「好意」とは全く別のもの。
これがどういう好意か、きちんと捉えられますか?
……はっきり言って願い下げなんだよ。

しかし奴らはその違いがわからない。
だからこそ、その好意がさも一般的な好意であるかのような言い回しを使えば、それでごまかせると思っているのです。

自分の行動がプラスのものからくるんだと考えるのは、とても甘く受け入れやすい。
しかし、そこにある気持ちが全然違うものだと分かる人間からすれば、それは相当気持ち悪いものなのです。

……愛だの何だの、自分のよくわからない単語を並べれば、ごまかせると思いましたか?


「気持ちを偽る人」

上の「好意」のように、自分の気持ちを偽ることは、まさしく最低の行為です。
なぜでしょうか。
……まあ、他人の気持ちを踏みにじるわけですから、当然といえば当然なのですが。

好意が正当化のために使われることがある、と言いました。
じゃあ、そこにある嘘が見抜けない人に対してそれが行われると、どうなるでしょうか。

相手は自分のためにしてくれているはずなのに、一方その態度はまさに真逆なので、とても苦しい。
相手は好意で言っているのに、どうして苦しいの?
きっと、「自分が悪いから」なんだ……と。

そうです。
相手の言葉を正当化するためにまた、自分も嘘を付くことになるのです。
主に、自分自身に対して。

このように、自己欺瞞は伝染するのです。
わかりやすい例が、DVにおける共依存でしょう。
これが生むのは、お互いに、相手に対する気持ちがあるのだと「思い込む」ような関係です。
しかしそこには、心のつながりなんてものは何一つなくて……
まさに小説の題材にでもなりそうな関係を、リアルで構築するのです。

こういうのは、いつまでもごまかし続けられるものでもありません。
その歪は少しづつ溜まっていきます。
そして、いつかごまかしきれなくなって爆発します。
そうなって初めて、信頼関係なんて何一つなかったことに気がつくのです。
そしてその時にはもう、いろいろなことが手遅れになっている、かもしれません。


「体罰」

一般的にダメとされる体罰ですが、体罰を擁護する人はたまに出てきますね。
どうしてでしょうか。

彼らの言い分を聞いてみましょう。
すると、どれも大体同じであることがわかります。
曰く、
「自分もそのようなことはあったが、それは自分を思っての行動だ」
と。

しかし、どうしてそう言えるのでしょうか。
相手がそう言ったから? どうして? それは嘘ではないのですか?

つまりはこうです。
自分が苦しいのを正当化するために、相手の行動が好意からくるものだと「思い込んだ」のです。
悪意と考えるよりも、善意と考えたほうが楽であり、人間受け入れやすいものですからね。

そして後々、これは繰り返されます。
彼らにとって、自分が相手を叩いたりするのは「好意があるから」であり、もし仮にそれが否定されるとすると、自分が苦しかったことが正当化できなくなるのです。

さてこの体罰は、相手のことを思っての体罰でしょうか。
違いますね。非常に自分勝手な行為であり、体罰ではなく暴力と呼ぶべきでしょう。
しかし、自分が受けたものがただの暴力でしかなかっただなんて、こういう正当化をしている人間にはなかなか受け入れられるものではありません。

このように、体罰という言葉は大抵、暴力の正当化に使われるのです。

多くの場合では、それをごまかすために、言ってもわからないから殴って言い聞かせるなんていう言い訳がされたりします。
しかし、殴られれば思考は「止まる」のです。

それは、「~という行為をすると怒られるから、よくわからないけど~という行為はしない」というものを植え付けるだけです。
これ、どこかで見ましたね。
そう。まさに自分に自信のない人間の思考そのものです。
結局何の解決にもなりません。

ある程度物心というか、分別がつくというか、自分で物事を考えられる年齢であれば、こういうのは本当に有害でしかありません。
考えるということ、まさにその精神の成長を止めてしまうのですから。
いいや、それ以前の年齢だって、その芽を潰してしまいかねません。

体罰は、自分に自信のない人間を生み出すだけです。
自分で考えるのではなく、他人が考えたものをそのまま押し付けられ、その行動を否定され続けるのですから当然のことでしょう。

そしてそれゆえに、他人を自分の支配下に置きたがったりするわけです。
まさにその構造が、連鎖が、ピッタリ一致すると思いませんか?


体罰とは、かなり極端な例です。
しかし、実際にはそこまでいかなくても、十分致命的な場合が数多くあるのです。
私が問題だと言っているのはまさにそこ、そこの人たちのことなのですね。

手を出していないから大丈夫とかいう話ではありません。
むしろ、手を出していないほうが周りが介入することができず、またやられている方もそれを暴力と捉えることが難しくなってしまい、
結果人間として大変なことになってしまう場合も多いのです。


「弱さアピール」

自信のない人間は、他人を攻撃することで自分を保っています。
しかし一方で、自分が窮地に立たされると、今度は弱さアピールをして責められるのを回避しようとします。
相手には執拗に攻撃するくせに、ちょっと自分に都合が悪くなると俺は弱いからやめてくださいだと?
流石にそれは、ふざけるなという他ありません。

しかも、それで相手が言うのをやめると、問題をきれいさっぱり忘れてしまいます。
結局責められるのから逃げたいだけであり、何も改善されないのです。


「許す」

ある人は言います。
許すことは大事だ、と。
自分のために、他人を許しなさい、と。

しかし、上の方で私が文句を言っているような人間を許す必要はあるでしょうか。

そういう人はいつだって、責められるのを避けたいだけでしかないのです。
だからこそ、許された、責められるのを回避出来たと感じれば、全部なかったことになってしまう。
反省すらしていません。したつもりになっているだけです。

なかったことになるのですから、何も学習しません。
ゆえに、何度でも再発してしまうのですが……怒っても、その時相手はこういうことを言ったりします。
「あの時は許してくれたのに!」と。
時には自分の謝罪のようなものを盾に相手を責めてくるのです。
……それのどこが謝罪だったのでしょうか。

まさに、許せばまた、その気持ちを踏みにじられるのです。
たとえ何かを許してもらったところで、絶対になかったことにはならないのですが。

これでは、許すことに何一つ意味がありませんね。
それどころか、暴力で返されるわけで、自分のためにすらなりません。

ここまで来てしまうと、こんな人間許せるわけがない、と思うかもしれません。
しかし、許さないなんて思いつづけるのは、まさに時間とエネルギーの無駄でしかありません。
どうすればいいでしょうか。

最も良いのは縁を切ることです。
それが無理ならば、疎遠にするのがいいでしょう。やり取りは全て事務的なものだけにして。
関わることがマイナスにしかならないのですから。

基本的に、こういう人間と通じ合うことはできないのです。
なぜなら、中身がバレるのが怖いがゆえに、実は自らそういうつながりを拒否してしまう人たちなのですから。

そして、許すとか許さないとか、そんなものはどうでもいいと考えましょう。
だって、そんなことを考えてやる価値すら、会話してやる価値すら、相手にはないのですから。
まさに価値がない……すごくしっくり来ませんか?

別に、心の中で許していても構いません。
ただし、相手に許していると言えば、そこに付け込まれますよ、ということです。


「アドバイス」

よくある虚栄心を満足させるための方法。
相手に何か言うということは、自分が上に立てるということだからね。

それで相手が成功すれば「自分の手柄」
失敗すれば「やった奴が悪い」

……クソみたいな考え。

本当に相手のことを考えて言っているかどうかなんて、簡単に分かるのです。
しかし奴らはその違いを判別することができません。
だからこそ、言葉で正当化すればそれでごまかせると思っている。
いいや、そうやって自分すらごまかすのです。

「お前のために言っているんだ」にある嘘は、このようにして生まれるのですね。

本当に相手が見えていれば、こんな自分勝手なアドバイスはできません。
誰かに何かを言うということは、それ相応に責任が伴うことだからです。

また、この「アドバイス」とやらは、相手が見えていないのですから、
自分の中に自分が舐めることのできるイメージを作り、それを相手に投影するという方法にしかなりません。
そしてそれに対して「アドバイス」をするのですから、これほど気持ちの悪いものはありませんね。


「負け」

勝ちだの負けだの言っている人はよくいますね。
○○は負けだの何だの言って。
ではこの「負け」とは何でしょうか。

勝負の勝ち負けのことではなく、劣る、という意味です。
しかし、「お前は俺に劣っているんだ」では、あまりに人を見下して見えるでしょう?
だからこそ、「負け」という単語を使うのです。


「簡単な言葉」

私は簡単な言葉の方を好む。
わざわざ難しい言葉を回避してたりするんだよ。
この辺り、奴らとはまるで真逆だと思っている。

簡単な言葉と言うのは、逆に難しい。

簡単な言葉だけでは、なかなかごまかしは効かず。
理解するためには、きちんとその言葉の言わんとすることを捉える能力が必要になるからだ。

難しい言葉、使いやすい言葉は、使っただけで分かった気になれちゃうでしょ?
前にも言ったな。そんな言葉ばかりを使う人間は、実はよく分かっていないんだって。
ただ一般論を持ってきて並べるだけでは、何も理解できませんよ。


「理屈で言え」

こんな言葉を返されたことがありました。
私は十分すぎるほどにわかりやすく説明したんだけれど。
これがどういうことか……どういうものから出てきた言葉なのか、分かりますか?

他人の言葉を使って言え、ということです。

私の言葉じゃなくて、一般的に認められているようなもので、俺が使える理屈を提供しろ、ということ。

これほど……これほど人を馬鹿にした言葉もありませんね。
自分の言葉で書きましょうって、小学校で教わらなかったの?

結局、奴らは自分で理解することができないのです。
さも自分で考えたような顔をして理屈を述べますが、しかしその根底には、
他人が言った理屈や言葉を自分に都合よく解釈したものばかりが並んでいます。
要するに、他人の自信を使っているのです。

これを何ていうか知ってますか?
虎の威を借る狐って言うんだよ。

そして、他人の言葉を利用する一方で、それを使って他人の言葉を否定します。
そこにあるのは、目の前の他人の言葉を否定したいという気持ちだけです。
だからこそ、それは揚げ足取りにしかならず、言動が矛盾してしまうのです。

奴らにとって大事なのは、理屈が正しいことではありません。
他人から見た自分が正しいことなのです。
だから、他人からの視線に気に入らないものがあるとすぐに挙動不審になります。
しかしその態度こそが、まさしくそこで言われていることの証明であったりするのです。

一つ言っておくと。
一般的に正しいことをいくら並べたところで、お前が正しいことにはならないんだぜ。

いくら理屈を覚えたところで、それが自分の正当化にしか使えないのならば、何の価値もない。


「言葉」

言葉とは、意志を伝えるための手段であったはずなのに。
いつの間にか、その意志をごまかすためのものに成り下がっている。
自分をごまかすために、また、他人をごまかすために。
言葉で固めるのだ。

これを、理論武装という。

言葉と言えば……
自分にできないことや、自分にないものをごまかすために、言葉を使ってさも分かっていますといったふうに振る舞う、と言うのはよくあります。
例えば、誰かが言った言葉をそのまま持ってくればいいですね。
ある意味での正論や何かを、そっくりそのまま。
そこの手口はかなり巧妙であり、一度や二度で見抜くのは至難と言わざるを得ません。

そういうのは、はじめはごまかせるでしょう。
しかし、特に私みたいなタイプからすれば、付き合っていればそういうのは分かってしまうのですね。
人間性をごまかすことは、絶対にできません。

こういうのにツッコミを入れてやるのはいいことでしょうか。
突っ込まれたら「ごまかせなかった」ので、奴らは別のものを使い出します。
その場は強引にごまかして終わりにしますが、自信がないので使えなくなってしまうのですね。
まあ、それでごまかせないともっと酷いことになるがゆえに、毎回強引に押し切ろうとする奴らもいますが……。
ツッコミを入れても、どんどんごまかしの手口が巧妙になっていくだけで、むしろマイナスなのではないでしょうか。

と、考える一方で、放置すれば「ごまかせた」ので増長することに……
どうしようもありませんね。


「言外の意味」

自分のせいじゃないんだと言いたいがために、言葉に相手がおかしいのだという感情がにじみ出てしまう。
そんなことはよくあることです。
まるで相手がおかしいかのような口ぶりで話をして、相手を悪者に仕立て上げようとする。
それが他人を苛つかせ、まさに不和の原因になるのだが。

しかしそれを指摘されても、そんな意図はないだの言えばごまかせると思っているのだ。
明言はしていないので、言質は取られてないので。
そんな風に責任を回避することばかり考え、相手の話ひとつ聞けやしない。
分からないとでも思っているのか?

こんなのと、まともに会話してやる必要はありませんね。

この程度のこと、見抜けるようになってほしいなあ。

ああ……私も、よくやられたよ。
例えば、そうだな。私が殴られた時とか。
全部私が悪いことにして、相手は自分の心配しかしてねえでやんの。
謝れ謝れって、恥ずかしくないんでしょうか。
私から見たら、奴が言う状況からしてまったく違っていたのですけども、まあめんどくさいから謝って疎遠コースですね。
してしまったことより、「その後の対応」を見られていたことに、気づきもしなかったのでしょう。
まさにその中身が丸裸になったような事件でした。
まあ、聞きたいなら話してもいいけれど、積極的に話したいというものではないよね。


「妬みや嫉妬の感情」

私は昔から、標的にされやすい。
そしてその根本にあるのが、これだったりするのでしょう。
相手に自覚はないでしょうが。

どこにと問えば、まずは私のこの「目」です。
私の感覚、いわゆる感性とか呼ばれるもの。

実は、私みたいに自分の感性で物が言える人なんて、あんまりいないのです。
特にその、自分に自信のない人には、こういう物の言い方は絶対にできません。
それがまさに気に食わないのでしょう。

自分にはできないし、よくわからないけれども「何かすごそう」
だからこそ、それを否定したがるのですね。

簡単そうに見えるのでしょう。
それは奴らの言う理屈、“他人の言葉”で形作られているわけではないので……
私を馬鹿にしてしまえばそれで済むのですから。

そして、そういう人間を自分より「下」に置くのは、奴らにとって得も言われぬ快感なのです。
「何もない」人間を馬鹿にするより、「何かある」人間を馬鹿にするほうが何十倍も満足感を得られますね。
例えば、芸能人とかをよく馬鹿にしている人、いるでしょう?

さらに、「下」に置いても大丈夫そうだ、と。
あんまり怒らなそうだ、と。自分の痛いところは言ってこないから楽だしバレてなさそうだ、と。
いつも穏やかでいたりすることを、こんなふうに都合の良い解釈をするのです。
無意識のうちにね。

痛いところを突いてこないというのは普通、それが痛いと分かるからなんだけれども。
そんなことも分かっていないのでしょう。

いろいろな条件が重なり、このようにして「選ばれる」ことになるのです。

しかし結局のところ、私が怖いのでしょう。
私に、その自信のない内面を読み取られることを恐れて。
だから必死に馬鹿にして、それをなかったことにしようとする。
けれどもまさに、そういうことをするから、それを突きつけられることになるのです。

もっと穏やかに言えば、なんてのはあまり効果がありません。
なぜなら、それをなかったことにしたいので、相手は必死に揚げ足取りをします。
低レベル過ぎてめんどくさいからもういいや、わざわざ言うことでもないからもういいや。
そんな風になんとかなってしまえば、それでもって相手を馬鹿にする材料にするのです。
本当に都合よく解釈して、この話は俺のほうが上だった、と。

放置すれば、どんどんエスカレートします。
自分が馬鹿にしても大丈夫な人間で、何をしても許してくれて、いつでも自分よりも下にいてくれて……
そうやって、相手を道具として扱うようになります。
どんどん都合の良い存在へと作り替えられるのです。
まさにこうやって、相手の良心に付け込むという事態が起こるのですね。

……。
もういい加減にしろよといえば、絶交とか言い出す。
自分に逆らうのならいらない、ということである。
こんな関係が友人とか言い出すのだから、笑ってしまうよ。
その言葉を言わされたことにも気づいてないのでしょうね。

結局、私が言った言葉は……どれも奴らの劣等感を煽っただけだったのです。


「価値観が違う」

男と女は違う生き物なんだ、という話があります。
本当に価値観が違うんだ、と。
しかし……

私に言わせれば、男も女も大して変わりません。
出やすい性質の方向性が違うだけで、その中身、その根本的な所は似たり寄ったりだったりします。
おんなじ人間なのですから。

表面だけを見るならば、なるほど異様に見えるのでしょうね。
だから、それが理解できなくてもいい理由として、価値観が違うなどという言葉を使うのです。
しかしこう正当化してしまっては、理解は一歩も進みません。

大体、価値観が違うなんて他人なんだから当然のことだろうが。
たとえ親だろうがよ。

前にも言ったよな?
こんな言葉を使うということは、相手のことを理解しない、理解する価値がないと言っているのと同じだって。
人それぞれ価値観が違うからこそ「会話」をするんだろうが。

「価値観が違う」は「相手の価値観を理解しなくていい」ではない!

結局、価値観が違うなんて言葉は、そのほとんどが正当化でしかないのでした。

……それと。
ここで私がいろいろ言っていることは、実は、男も女もあまり変わりませんよ。
ただし出やすい方向、そこから出てくる「もの」は異なる場合が多いので、ちゃんと見えない人にはわからないのですけれど。


「嘘つきは泥棒のはじまり」

こんな言葉があります。
嘘つきと泥棒には、あまり関係がないように思われるかもしれません。
しかし実は、嘘やごまかしばかりの人間は、本当に「盗む」のです。

何を盗むのかといえば、もう既に述べました。
つまり、「他人の理屈」や「他人の自信」を盗むのです。

そしてそれが通れば、その行為はエスカレートします。
例えば、「他人の成果」を盗むようにもなったりします。
そしてそういうことをしておいて、罪悪感もなく平然としているのです。
なぜなら、いままでそうやって盗んできたのが、誰にも咎められなかったのですから。

私も、私の言ったことが都合よく解釈されて、他人を馬鹿にするツールとして使われたりするのはなかなか気持ち悪いものです。
しかし、そういうのがあるから意見を言わないようにする、というのは違うでしょう?
だから、そんなものは無視しましょう。
結局のところ、彼らはそうやって盗むことでしかやってこれなかったのですから。
回避することはできないのですし、分かる人は分かるのです。
そうやって、他人を見極める手段の一つと考えればいいのではないでしょうか。


「外面」

嘘やごまかしばかりの人間は、外面ばかりはいいことが多い。
これは、少し考えてみれば分かります。

つまり、いつも表面ばかりをごまかしてやってきたことの現れなのですね。
まさしく象徴的であると言えるでしょう。

私からすれば、外面が良くても何か引っかかりを覚えたりするものですが。
そういう所からも、中身というものは結構分かってしまうのですよね。

しかし、世の中にはそういうふうに分かる人のほうが少ないのです。
だから、突然豹変しただとか、なんであの人が……みたいなことが起こります。
特に、ハラスメントなどの問題が表面化した際には、その何十倍もの嫌がらせが背景にあると予想されるのです。


「謝罪」

事あるごとに、謝る人間がいます。
なんかよく分からないことに対しても謝られたりします。
これはどういう気持ちから来るか分かりますか?

こういうタイプは、本当に謝っているわけではなく。
謝罪を口にすることで、相手から追及されるのを避けようとしているのです。

俺はもう謝ったんだぞー、なのにまさか責めたりしないよね?
……やっぱりこれも、責められるのから逃げたいだけでしかありません。
こんなの、謝罪などとは呼べませんね。

こういうごまかしは結構あります。
やっている方は、内面が読み取られていることに気づかないのでしょうね。


「心が広い」

全てをスルーして、それが心が広いなどと、よく考えずに解釈してしまう人がいる。

だが、それは違うだろう?
他人の欠点を無条件で許す、なんてものは心の広さを意味しない。
それは心が広いというよりも、無関心や無価値とみなすことに近く、実は結構酷いことなんだぜ。
結局、「どうでもいい」ということなのだから。

しかし、時にはそれが一番いいこともある。
酷くていいのです。
場合によっては、心の狭さを意味しません。


「コミュ力」

コミュ力という単語を使う人はよくいますね。
しかしこれ、使う人によって結構意味が違うことに気づいているでしょうか。

ある人は、コミュ力=説明能力という意味で使っていました。
言わないのが悪いんだ、ちゃんと説明すればうまくいく、と。
一理あるように思えてしまうでしょうか。

私は、そうは思いません。
コミュニケーションとは一人では成り立たないのに、どうして説明側だけが悪いことになっているのでしょうか。
説明するほう、受け取るほう、両方がいて初めて成立するというのに。

もし、コミュ力=説明能力と仮定すると。
相手の言うことが分からなくても、コミュ力がないことにはなりません。
だから、そこで何か問題が起きても、自分は全く悪くないことになりますね。
コミュ力とは、コミュニケーションを円滑に行う能力のことなのですから。
自分はコミュ力がないというわけではないので、それが円滑でないのならば、自分のせいではない、と。

結局は、自分が理解できないのを相手のせいにしたいという感情が根底にあるのです。
でも直接、お前のせいだなどとは言えません。
一般的に、そんなことを言ってしまう人間は「おかしい」とされているから。
だからこそ、コミュ力などという曖昧な単語が使われるのです。

私に言わせれば、受け手のほうが何倍も大切です。
説明する方だけでは、説明したいことしか伝えられません。
特に、都合の悪いものは隠してしまったり、相手の目に映る自分をごまかしたり、
「説明」にはそういったものが混じるのです。

とはいえ、普通の人は、ちゃんと「説明」以外のものから情報を得ることができているのですが。
奴らはそれができないから、これもまた、それでごまかせると思っているのです。


「コミュニケーションという欺瞞」

コミュニケーション。
こういう曖昧な単語は、ごまかしに使いやすい。

コミュニケーションが大事だ、とはよく言われますね。
しかし私は、そこで納得できたことはあまりありません。
なにかおかしい、そういう違和感を感じたことはありませんか?

これは、多くの場合彼らの使い方がおかしいからです。
すなわち、自分が人とうまくいかないことを、自分のせいではなく、そこの情報伝達がうまくいってないせいだ、とするのです。
これもまた、正当化の一種でしかありません。

コミュニケーションがうまく取れない。
それをごまかすために、コミュニケーションが大事なんだ、などと主張するのです。
しかし……

奴らが目指す、その先とは?
その「コミュニケーション」がうまく働いている状態とはどういうものでしょうか。

そもそもどうしてコミュニケーションがうまくいかないのでしょうか。
それは結局、その内面が読み取られていることに起因します。
彼らは、まさにそれに自信がないのですから。
だからこそ、それがばれないようにとごまかしまくる……こんなんでうまくいくわけがありませんね。
内面を読み取る、それこそコミュニケーションだというのに。

彼らの言うコミュニケーション能力とは、いかに自分の中身を見せずにうまくやれるかということです。
コミュニケーションのスキルがどうのこうの言っていたりしますが……
それ、ごまかしのためのスキルじゃないですか。

そんな人間にとって、コミュニケーションがストレスにならない世界とはどんなものでしょうか。
中身が読み取られるとうまくいかないのですから、つまり……

全てが事務的であって、何一つ気持ちの通わないやり取りしかない世界のことです。

コミュニケーションを謳いながら、それはコミュニケーションとはまさに真逆のもの。
こんな皮肉もそうそうありませんね。


「暗い」

“暗いと不平を言うよりも、すすんであかりをつけましょう”

そんな言葉がある。
私がこれを、やらなかったとでも?

私はもう、十分すぎるほど明かりを灯したんだよ。
色んな物が見えるようになるように、って。

しかし奴らは、その明かりを消して回ったのだ。

だって、明るいとその「自分自身」がはっきり見えてしまうだろう?
だからその劣等感ゆえ……まあ、上で言ったな?

これを暗いっていうんだよ。
今一度、明るいとか、暗いとか、考えてみるといい。



ここまで読んで……
どれも、大体一緒だってことが分かったでしょうか。

まさに「それ」こそが、本当にさまざまな問題を引き起こすのです。
そしてそのどれもが致命的であるのです。

深入りする必要はありません。
そんなことをすれば、あまりにひどすぎて、どんどんエネルギーを奪われてしまいます。
しかし知っておかねば、本当にとんでもない目にあうかもしれません。

例えば、ブラック企業。
随所に、既に述べた性質が見て取れます。
ブラックでないと言い張れば、それで通ると思っていたりする所とかあるでしょう?

スルー。
それでいいように見えて、しかしそれがあまり効果的でない場合がある。
気づいているでしょうか。
こういうのばかりだと、表面上はうまくやっているつもりでも、心はどんどん冷えていくことに。


私は奴らを、もう十分すぎるほど理解したよ。
それを、自分にとって不都合だからといって暴れられたところで、私の理解は何も変わりません。
むしろ逆、それが証拠だって言っているのです。
そういう行動まで予想通りなんだぜ。


私と奴らは、本当に相性が悪いのです。
方や内面がバレたら困る人間。
方や内面を見るのに特化しているような人間。
上手くいくには、後者が前者のごまかしに付き合ってやるしかありませんね。
しかしそういう人間は、得てしてごまかしというものを嫌うのです。

お互いに関わり合いにならないほうがいいのでしょう。
それは、ある意味で最も厳しい選択だけど。

放っておけば、将来致命的な問題を起こすかもしれない。
いや、その可能性はかなり高い。
しかしそれを分かっていてなお放置せよ、ということです。

奴らの思考……
分かっていて言わないのは最低だなどと、「一般論から」言ったりします。
だから、言っても意味が無い、むしろマイナスだと十分言っただろうが。
むしろ、ここまでになる過程でもう十分すぎるほどいろいろ言われているでしょうに。
まさしくそういうのを、揚げ足取りというのです。

本当に奴らはこんな揚げ足取りばかりしてくるので、こういうのは勝手に思い浮かんできてしまう。
こういうのを侵入思考というのでしょうか。
ああ、非常に不快だわ。

きっと、ごまかしにはもっと厳しく行けばいい。
そうすれば、奴らはなかなか近づいて来れないだろう。
相手を舐めていなければ、いい関係を築くことすらできないのだから。

奴らに騙されたりして、ひどい目にあう人はきっといるでしょう。
しかし、その人のことまで考える必要はないのです。
だって、それを判断したりしなければならないのはまず、私じゃなくて当事者なのですから。


私もいろいろ言っていますが、きっと、こういうのが受け入れられずに離れていく人はいるでしょう。
しかし、むしろこういうのがあったら付き合えなくなってしまう人間と、どうして親密に付き合ってやらねばならないのでしょうか。
まさにそれこそ「表面的」ではないですか。
そんな関係いりませんね。

本当によ、ずいぶんと低レベルな話だよな……
あー、ちゃんと感性を使った会話ができる人が欲しいなあ。
でもこれって、一般的には本当にすごく難しいことなんですけどね。
でも、出来る人はできると思っています。
それこそ簡単に。



使わなかったキーワード。
何を書きたかったのか、想像できるかい。

「自己紹介乙の法則」「ごまかすための手段」「フレネミー」「もうしないよ」
「思い込み」「条件付き」「自慢」「発狂」「炎上」「議論のようなもの」
「無能」「老害」「信頼」「理屈バカ」「青いな、という青さ」「歌詞」「隠蔽」

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